一年と三十万字の先に(古谷田奈月『フィールダー』)

 

古谷田奈月の新刊『フィールダー』を読んだ。

この小説が発売された八月末、私は絶賛コロナに罹患しており、家庭内隔離の状況下だった。普段はほしい本はe-honで注文して近所の書店に買いに行く。だけどそうはいかない状況下だったのでネット通販で発売日に到着するように購入した。結果的に隔離期間も終わった九月初めごろに読んだのでそんなに急いで買う必要はなかったわけだけど、私にとって古谷田奈月の新刊は発売日に絶対欲しいものなのだ。

 

 

実際読み始めるとあっという間に引き込まれて二日程度で読了した。だけどすぐには言葉にできなかった。普段は面白い本を読んだらすぐTwitterに感想を流したりするのだけど、そうしようとは思えなかった。でも言葉にしなければならないという気持ちがぐずぐずとあった。目につく場所に置いたまま一ヶ月が過ぎた今、もう一度この本をじっくり読むことにした。

 

 

本書の主役、橘泰介は大手出版社・立象社に所属し、人権にまつわる社会問題を取り上げる小冊子「立象スコープ」の編集部員だ。ある日、担当する著者であり信頼する児童福祉専門家である黒岩文子が、ある女児(黒岩は「アカツキ」と呼ぶ)を「触った」らしいという疑惑を聞かされて動揺する。

橘にはもう一つの顔がある。リングランドというオンラインゲーム内におけるハルオというキャラクターだ。VERSYS(隊長)、ハチワレ、未央と四人で毎晩のようにフィールドに狩りに出ている。ゲーム内では恐ろしく優秀だが恐らく引きこもりであるVERSYS(のちに礼という名前が明かされる)のことをハルオは気にかけていた。

 

 

黒岩文子は橘に宛てたメールの中で、アカツキへの感情、アカツキと肌で触れ合ったこと、しかしそれは性的な接触ではない、それは自分が一番よくわかっていると綴る。そして夫である絵本作家・宮田が「かわいい」からといって猫をペットとして飼う傲慢さに触れ、宮田の行為が微笑ましく受け入れられ、自分の行為が糾弾される、「ねじくれ」を直したいのだと言う。

黒岩の言葉が事実だったとして、ネグレクトが疑われるアカツキが赤子のように誰かの肌に甘えたいとせがんだとき、性的でない接触を与えて救おうとしたことは罪なのか。アカツキが実子だったら、もしくは養子だったら。それとも接触はなくても互いに特別な執着心を感じていたら。それが他者に露見することがなかったら。

他者から許される「境界線」はどこにあるのか。

 

 

一方で橘はハルオとしてチーム内のちょっとしたいざこざをきっかけに隊長と個別に話すこととなり、彼がまだ未成年であることを知って驚く。そして母親からの過干渉でほぼ外出できずオンラインの世界に生きてきた彼(礼)に現実の世界で手を差し伸べたいと考えるようになる。

家庭環境に問題のある未成年を助けたいと思った、という点に絞れば橘も黒岩も同じである。なんらかの機関や他人を介するのではなく、個人としてある種の感情を持って助けようとしたのもまた同じである。

ならば橘と黒岩の違いは何なのか。

触れるか触れないかに「境界線」があるのだろうか。

 

 

そしてこの物語にはもう一人、助けを求める未成年がいる。宮田と黒岩の娘である郁己である(黒岩の実子ではない)。黒岩が家を出たことで自分もまた家を出たいと思った郁己は橘の家に置いてくれと頼む。が、当然のように橘は断る。

「どんな事情があるとか、実態はどうかとか、世間はそんな細かいことを気にしてくれない。たとえ丁寧に説明したって、聞いてもらえないし読んでもらえないーー今の時代、長い文章なんて誰も読みやしないんだから。印象がすべて。ジャッジも早い。一人暮らしの部屋に女子高生を連れ込んでるなんて、そんなふうに言われたらぼくは即死だ」

冷たいが正しい判断だ。だが郁己と礼は同い年である。物語の終盤で礼は18歳になるが、成人という国が決めた線引きによって橘は礼を個人的に助けようと思ったわけではないだろう。郁己には宮田という保護者がいること、状況が深刻ではないこと、そして郁美が女性で礼が男性であることも、もちろん無関係ではないはずだ。それでも橘が郁己を助けることは断り、礼は自分から手を伸ばそうとした。その違いは何なのか。

「境界線」の正しさは、誰が決めるのか。

 

 

本作におけるジェンダーについても考えてみたい。

もし黒岩が男性だったら、と考えたとき、私は本当にゾッとした。

もし黒岩が男性だったら、アカツキに触れていたのが黒岩でなく宮田だったなら、橘は黒岩の長い長いメールを最後まで読んで会いにいくだろうか。理解しようと思うだろうか。

そう考えたときに黒岩文子が女性であること、児童福祉の専門家であること、という設定に著者の強い意図を感じた。

女性の性犯罪者がいることは知っている。ただ一方で性犯罪の加害者の8割以上が男性だということも知っている。でもだからと言って男性だったら「あり得る」、女性だったら「あり得ない」と反射的に思ってしまうのはやはり性差別だ。「まさか」と思ってしまった自分の中にある差別心を見つめさせられる。

また黒岩が女性であったことは、アカツキとの肌の触れ合いの背後に「母性」的なものがあるのではないかと想像してしまう。それもまた女性には母性があるという幻想に基づいた差別だろう。

「児童福祉専門家である女性が小児性愛者であるはずがない」

「他人同士が肌を触れ合う行為は性的欲求を満たすためである」

「オンラインゲームに入り浸る人は現実の人間関係に問題がある」

「独身の男性が女子高生を部屋に泊めるのは性的な目的があるからだ」

私たちのジャッジ、つまり境界線には深く先入観=差別が結びついている。

境界線の背後にある差別を浮き彫りにするこの物語は、境界線を決めること、ジャッジすることの暴力性についての物語でもある。

 

 

橘は黒岩の件を記事にしようとする同期の編集者に噛み付く。

「一年と三十万字くれ」

と。この件を記事にするにはそれだけ必要だと。

「紙幅なんだ。すべては紙幅だ。言葉が全然足りないんだよ。複雑なことを複雑なまま伝えないから自殺や差別がなくならない。人間は、本当は、単純さに耐えられる生き物じゃないんだ」

情報は即座に拡散される。よりわかりやすい、より強い言葉で。正しい、素晴らしい、間違ってる、あり得ない。誰かの共感を呼ぶ言葉にリツイートが積み上げる。そしてあっという間に忘れられる現代。

複雑なことを複雑なまま、答えの出ない問いを考える時間が、考え続ける根気が、欠けているのではないか?という問いの前に私は返す言葉がない。

「おまえらの正しさはいつだって外に基準がある」

女性表象で炎上を繰り返す少年漫画誌の編集者・前野が吐き捨てるように言う。この人ならと信頼できる人をフォローする、その人の言葉を信用してリツイートする。その日常の行為ひとつだって「正しさの基準が外にある」ことなのだと突き付けられる。

「正しい」「正しくない」の境界線を決めるのは本当に自分なんだろうかと足元が揺らぐ。

 

 

またこの物語には「筋を通す」という言葉が何度も出てくる。

これは黒岩が立象社の不祥事について橘に問いただした「どう筋を通す?」という問いに始まる。その不祥事とは立象社の社長(当時)がSNSで同性愛嫌悪発言をしたことだ。このことが引き起こした世間と業界関係者の激しい反発は、現実に起きた『新潮45』事件を思い出させた。

この物語を貫くこの「どう筋を通す?」という問い。

有言実行で「筋を通す」ことができる人もいるだろう。

「筋を通したい」という気持ちがあってもそうできない人もいるだろう。

「筋なんか通せるはずがない」と開き直る人もいるだろう。

だけど目に見える行動は表層であって、そこに至る様々な事情や感情が答える人間の数だけある。

暴力的な不正義を前に、抗うことも、立ち尽くすことも、飲み込まれてしまうことも、逆に飲み込んで前に進むことも、ある、あるのだと。私たちはもう知っている。

 

 

そんなこんなをぐるぐると考えさせられるこの物語の最後は、あっけないほどにスコンと抜けが良くて急に青空が見えた気持ちだった。助けたいと思い気持ちの真っ当さに、「この戦いも役割制でいこうよ」という言葉の掛け値なしの優しさに、不意を突かれて泣いた。両方は救えなくても。

再び覚悟を持って自分の手で「境界線」を引いた橘の行動はジャッジしたくない。だけどただ背中を押してあげたいような、そんな気がした。

 

 

チームワーク抜群と思っていたオンラインのチームが些細なことで崩壊しそうになることもあれば、現実の同期たちとの関係も悪いばかりでなく時に手を取り合うこともある。

現実もオンラインゲームも、チーム戦個人戦入り混じって戦い生きていく。そのほとんどはルールを守り境界線の内側だけど時には、不意に、衝動的に、もしくは死にたくなるほど考え抜いた先に、境界線を越えることもあるかもしれない。

私たちはそれを、「一年と三十万字」かけて理解したいと願うことはできるだろうか。