『私の女性詩人ノート』読書ノート

『私の女性詩人ノート』は詩人・たかとう匡子さんによる近現代の女性詩人論であり、現在三冊出ている。感想をまとめておきたい。

ちなみにわたしは詩を読むのが苦手で、この本で取り上げられている詩人の方々もあまり知らない。でもこの本作のように誌の解説や背景の説明があるとずいぶん読みやすい。詩を読む勉強にもなったと思う。

とりあえず今年は二冊しか読めなかったけど来年『Ⅲ』も読みたいと思ってる。

 

 

 

「はじめに」で著者が本作を書くに至った動機として、村野四郎氏の「(女性詩には)戦争をきっかけにした時代的葛藤の痕跡が見られない」という文章が引用され、そんなわけあるかいという反論と、なぜ女性の時代的葛藤が男性のそれと違うのか、ということが書かれていてすごく納得できる。

男性のみが徴兵される社会システムのなかでは男性にとっての戦争と女性にとっての戦争はどうしても異なるし、家庭内では責務の大きい女性の方が戦中戦後の貧しさの中で生活に縛られていた。また長らく続く男性中心社会の中で評者も男性なら女性の詩が正しく評価されてこなかったことは想像に難くない。今にいたっても小説に比べると詩の賞は男性評者の割合が大きいみたいだし。

「女性詩」を改めて評価するってすごく意味のあることだと思います!

 

与謝野晶子

トップバッターはやはり与謝野晶子。 1911年「青鞜」創刊号に「そぞろごと」という詩を寄せている。

すべて眠りし女、

今ぞ目覚めて動くなる。

これを受けての平塚らうてうの 

原始、女性は太陽であった

であったことを知ると感慨深い。

その二連目、 

一人称にてのみ物書かばや、

我は淋しき片隅の女ぞ。

一人称にてのみ物書かばや、

我は、我は。

ほぼ同じ時代を生きた女の労働者が一人称で語るまでそれから半世紀経っていたという話を読んだばかり(『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』湯澤規子)。歴史は上澄ばかり見ていてはいけないなと思う。

晶子は18年間で13人の子を産んでいる。しかもお産は重いタイプだったそう。死産の子もあった。20年くらいずっと体調最悪だったはずなのにその間も「明星」の資金繰りに心すり減らし山ほど原稿を書いている。この人じゃなかったらもっと早く死んでるよ!?というハードモードな人生。

引用されている詩を読むとかなりフェミニズムだし社会派だなと思う。恋愛スキャンダルとベストセラーで知名度はあれど家計は火の車で多産。嘘のない苦しみの感情ゆえに出てきた言葉が社会の矛盾を露わにし、そこにさらに読み手をハッとさせるような言語感覚があるのがすごいと改めて思った。

 

【左川ちか】 

北海道出身。24歳で亡くなるまでに約80篇の詩を残した、モダニズム詩の先駆者。 

ジョイスの翻訳から入ったというのが大きいんだろうか。言葉の組み立て方がすごく独特。というか二十歳になるかならないかの頃にジョイスの翻訳に挑戦するだけの力があるというのがまずすごい。

最初に発表された詩「昆虫」より

夜は、盗まれた表情を自由に廻転さす痣のある女を有頂天にする。

格好の良い文章だと思う。

まだ全部読んでないけど岩波文庫の『左川ちか詩集』あとがきで紹介されている中保佐和子氏による指摘、 〈左川は絵を描くように詩を書いた、キュビズムのように、見える対象を解体し再構築している〉 が個人的にしっくり来る。古びないのもそれゆえかな、と思う。

師匠である藤整の『海の捨児』と左川の『海の拾子』。 わたしみたいな素人が読んでも明らかにわかる、教える-教えられるの関係性をひっくり返してしまったその瞬間、あまりにドラマチック…! 長生きしてほしかった、もっと詩を書いてほしかった人。

 

江間章子

 YMCA英語専門学校に学び、外務省の外郭団体である国際問題研究所に就職したそうで当時にしてはかなりのキャリアウーマン。 左川ちかと大の仲良しだったそうで江間もまたモダニズムに傾倒。西洋文化が最先端のモダンガールの文脈で江間を見る著者の視点も面白い。

江間の詩はファンタジックで楽しい。左川の詩には死の気配が、江間の詩には人生の彩りが満ちている。大親友の早すぎる死が刹那な生の輝きに意識を向かせたのかもしれないな…なんてことを思う。 

戦後は歌曲の作詞家としてたくさんの名曲を生んだそう。

 

【藤田文江】 

1908年生まれ。

封建的な鹿児島で父親に隠れて詩を書き続け中央詩壇からも注目されたが、左川と同じく24歳で夭折。師と仰ぐ年上の男性詩人の家で突然亡くなったためスキャンダルとなったそう。 詩は今読んでもかなり生々しく、この当時に女性が性的な詩を書くのはかなり挑戦的だったんだろうと思う。詩から立ち昇ってくるのは「強さ」や「怒り」のイメージ。同じく鹿児島の中村きい子のことも思い出した。 

筆者は藤田の詩を〈「おんなせい」の問題、人間のエゴイズムを突いている〉とし、モダニズムの内面化にも成功していると高く評価している。

 

林芙美子 

芙美子は生涯で約三百篇にものぼる詩を書いたという。『放浪記』の前年に詩集『蒼馬を見たり』を出版してる。 詩も彼女らしい言葉で難しさはなく、言いたいことは言ってやる清々しさとともにくすっと笑える客観性がある。やっぱりこの人はエンターテイナーだなと思う。

この時代になって林芙美子平林たい子ら無産階級の女性文学者が台頭してきた背景に、義務教育制度の恩恵を受けた母親たちの存在があるのではないかと著者は指摘する。女が小学校で読み書きを教えてもらうだけでもこんなふうに世界が変わるんだなぁと感動する。

最後に引用されている「生肝取り」が本当に面白くて好きだ。

鶏の生肝に花火が散って夜が来た  

東西!  

東西!  

そろそろ男との大詰めが近づいて来た  

一刀両断にたちわった  

男の腸に  

メダカがピンピン泳いでいる。  

 

くさい くさい夜だ  

誰も居なければ泥棒にはいりますぞ!  

私はビンボウ故  

男も逃げて行きました  

まっくらい頬かむりの夜だ。

 

 

【永瀬清子】

戦前、戦中、戦後、そして阪神淡路大震災の一ヶ月後になくなるまでずっと詩を手放さなかった稀有な女性詩人。昭和二年に結婚するとき、会社員の夫に生涯誌を書くことを確約させたそう。

専業主婦として四人の子供を産み育て、百姓仕事もしながら詩を書き続けた人。マルキシズムにもモダニズムにも属さず、同時代の宮沢賢治に影響を受けたというのも自然と生活に根ざしている感があって良い。

新井豊美は「これまでの女性誌にない自我の強さ、「私」という存在にこだわる自己主張がある」「女性の詩の近代と現代を結ぶ貴重な存在」だと位置づけているそう。

 

茨木のり子

 戦後の女性詩人といえば、の代表格。

代表作「わたしが一番きれいだったとき」を改めて読み、

わたしが一番きれいだったとき

というフレーズとリフレインがそれに続く詩句に与える作用の大きさに気付く。悲惨だった現実を誤魔化すこともその悲惨さを強調することもなく、ただ焼け野原にポツンと立ちつくす若い女性の姿が見えて、誰も寄せ付けない。その取り返しのつかなさだけがひどく胸に迫る。

だから決めた できれば長生きすることに

という最終連のフレーズもちょっとおかしみはあるけど、やっぱり一人きりで立っている女の姿が見える。〈リフレインを上手に使いながら、明るいトーンで時代をモンタージュしていく〉ことが時代を越える普遍性を獲得している、という著者の指摘。その明るさが生む時代の暗さとのコントラストがより印象を強める。

ほっそりと蒼く

国を抱きしめて

眉をあげていた

菜ッパ服時代の小さいあたしを

根府川の海よ

忘れはしないだろう?

軍国少女だった時代を振り返る「根府川の海」も印象深い。

 

 

新川和江 

「わたしを束ねないで」には現代にも響く普遍的な強さがある。生きづらさを自覚しやすくなった現代だからこそ女性だけじゃなく色んな人が共感できると思う。主義主張の詩が全盛の時代に、技巧を凝らすのでもなく、自身の感情をかき分けて生み出された言葉がとても好き。

最後に引用された反戦詩「遠く来て」はずっと忘れずにいたい。

一滴の水をもとめて

遥かなところからわたくしはやって来ました

ようやっと辿りついた大河には

多くの生命体がむらがり

両岸には大都市が繁栄していました

欲望に膨れた腹を剥き出しにした水死人が

浮きつ沈みつ流れてゆくのも目にしましたが

わたくしは尚 一滴の水にかわく者です

 

一片の火種を探して

永遠に続くかと思われる闇の中をわたくしは来ました

大きな火は要らなかった

豆粒ほどの燠がひとつあれば

闇の中 手探りの手が触れて結ばれたあのひとと

わたくしのための一椀ずつの粥を炊き

互いの目を見つめ合うこともできる明りを

育てることが わたくしにはできましたから

 

わたくしの踏むひと足ひと足を

土は鷹揚に受けとめてくれました

今 わたくしが立っているこの土がそうです

走ってゆく子供の足を無残に吹きとばす

悪魔の球根などではなく

柔らかな緑の芽をふく種子だけを蓄えている土

生ききってやがて地に崩折れるわたくし達を

そっくり抱きとってくれる あたたかな土です

 

 

【牟礼慶子】 

戦後にできた詩誌「荒地」の中心的なメンバーである鮎川信夫に見出され女性として唯一参加していた。Wikiに載ってるだけでも31人のメンバーがいるのに女性はたった一人…しんどそう…。 

引用されている「挑戦状」という詩は

私をそっとしておいてくれないか

という一句で始まる。女として妻としてカテゴライズして扱われることへのうんざり感。「挑戦状」というより「哀願」だと著者は指摘するが本気で憮然とした感じも受けるので哀願とまでは思わないかな~。同い年である新川和江の〈私を束ねないで〉のほうが清々しい感じを受けるのは確かだけども。

 

白石かずこ

 女性ゆえの生きづらさの詩が続いた先に突然現れる白石かずこの詩、カラフルでポップでファンタジック!第一詩集に入ってる「卵のふる街」、勢いがあって楽しい。同じ卵を題材にした吉岡実の詩も引用されてるが、くっら!!!と思ってしまった笑 いやとても良い詩ですが…暗いな~笑

バンクーバー生まれの白石さん、モダニズムへの傾倒というよりミロやダリなどシュールレアリズムの絵が好きでそれを言葉にしたかったそう。当時ではまだ珍しかった朗読も積極的にやっていたそうで、言葉にリズムと色がある。

「男根」という詩がスキャンダルになったそうだけど、今読んでもめちゃめちゃ面白い。ロードサイドに寂しげに佇んでいる男根のイメージがハードボイルドで笑ってしまう。

手持ちの別のアンソロジー(高橋順子編著『現代日本女性詩人85』)に入っていた「現れるものたちをして」もすごく良かった。放尿する王妃の<ピーチ色の尻>の幻影に過ぎ去った君主制への苦々しい感情が交じる。面白い。

 

【吉原幸子

「現代詩ラ・メール」立ち上げ人の一人。『現代詩ラ・メールがあった頃』(棚沢永子)を先に読んでたのでイメージとして華やかで激しい人だったのだなという印象があったのだけど、詩もやっぱり総じてカロリー高い感じですね。

裏切りをください

インパクト。ところで彼女は1951年まだ戦後すぐのころに浪人してまで東大に入学したというのに驚く。東大に女子が初めて入学したのは1946年で女子はたった19人だったそう。4年後だってそんな多かったはずがない。若い時からすごい勇気とバイタリティの人だったんだなと思う。

 

【多田智満子】 

教養に裏打ちされた想像力のあるモダニズム詩人。 

引用されている「創世記捨遣・文字の創世記」、短い詩句から豊かで幻想的な世界が広がるのが本当にすばらしい。 また阪神大震災で被災した俳人永田耕衣の句に触発されて書いた「残欠の翁」は終わりなき孤独に思いを馳せ、深く印象に残る。でも彼女はこの「残欠の翁」を自分の詩集には入れなかった、その「見識を思うべき」と著者は指摘する。普遍的な詩になり得てると思うけど、それでも現実の被災をモチーフにしたことへの自らの警戒心があるのかなと思う。現実との距離感は詩人それぞれだな…と考えるなど。

 

富岡多恵子

 「あっさり詩を捨てて小説を書き出した」と紹介される富岡が詩を捨てた理由の本当のところはわからないし、結局は自分に合うツールを選んだだけと思うが、一方で詩作の意味を考えに考え抜いたゆえの結論なのだろうなとも思う。 

引用かれている「はじまり・はじまり」が好きで、

なんでもええから反対せなあかん

この旗持って

なんにもわかれへん

なんにもあれへん

そやから私は出掛けてる

 

はじまり はじまり

学生運動を冷めた目で見ているようでありながら、それでもとりあえず旗持って外歩く。わかったふりをしない。わからない、という衝動だけでも旗持って歩く、というのが清々しい。

 

新井豊美

 音大でオペラを学び、次に絵に行ってそれから詩を書き出したそうだけど、硬派であり続けたと筆者が指摘するように、引用されている詩は生真面目で硬質で少しとっつきにくい。

だけど別のアンソロジーに入っていた「夜のくだもの」という詩を読むとそれもけして明るい詩ではないのだけど、全体的に透明感があって柔らかい。印象が全然違っておどろいた。他にはどういうのを書いてるんだろうなと気になる。本書で紹介されていた『苦海浄土の世界』も読んでみたいな。 

 

 

 

 

 

石垣りん

 戦後ひとりで家族を経済的に支えてやっと一人暮らしできるようになったのは50歳の時だったそう。自分ひとりの部屋に「自分で表札を出す」ことがどれほどのことか、想像してしみじみとしてしまう。

銀行員であったこと、民衆詩を普及させた福田正夫の指導を受けたことが、石垣りんの詩がイデオロギーを超えた骨太い「庶民の戦後詩」となったと著者は指摘する。

 ところで石垣が勤めていた銀行で組合の壁新聞のために頼まれて一時間で書いたという原爆についての詩がすごいのだけど、そもそも写真に添える詩を書いて、と同僚に気安く頼むのがすごいな!?と思ってしまった。なんというか、詩との距離感が今と違いすぎる。あなた絵が上手いんだってね、ちょっとここのアキにイラスト描いてくれる?みたいなノリ。今そんな気安く詩作頼めないよね…でも本来はこの距離だといいのになと思う。この当時に比べると今は詩が高尚なもの、特殊な趣味になってしまったのかなぁ…なんてことを思った。

 

石牟礼道子

いろいろ周辺の文章は読んでるんですけど本丸「苦海浄土」は未読であることを告白します。ここに引用された「ゆき女きき書」短い文章だけど圧倒される。〈徹底して自分の内面をくぐらせながら他者、外部を語る〉ことは心を擦り減らすことでもあるだろうなと思う。

石牟礼さんの詩も初めて読んだのだけど引用されてる「入魂」にただひたすら圧倒される。

黄金の光は凝縮され、空と海は、昇華された光の呼吸で結ばれる。

そのような呼吸のあわいから、夕闇のかげりが漂いはじめると、

それを合図のように、海は入魂しはじめる。

わたしは、遠い旅から帰りつくことが出来ないもののように、

海が天を、受容しつつある世界のほとりに、呆然と佇っている。

そしてみるみる日が昏れる。いつもの、光を失った海がそこにある。

海と天が結びあうその奥底に、

わたしの居場所があるのだけれども、いつそこに往って座れることだろうか。

 

そのほか『あやとりの記』や『おえん遊行』などのSFみを感じさせる作品も面白そう。表現の幅が広くそれでいて源はひとつなのだなと思った。

 

森崎和江

『からゆきさん』は読んだことあるけど詩は初めて。筑豊炭田の下層の女たちが語る「狐」、引用された一部だけでもそのくらさの深さに胸を掴まれる。

おれはなにもないくらやみを知った

知ってしまった

まっくらくらが

おれが行けばぱちぱち音たててかぶさる

おれはわかる おまえの狐が

それはあのくらやみになっとらん

漬物桶のへしゃげたようなもんじゃ

方言ってすごくリアリティを感じるんだなということも思った。わたしも九州北部出身の人間なのですごくノスタルジーを感じるけど、わたしの祖父母世代の方言のキツさだなと思う。それを聞いたことがある人もだんだん減っていくことを思うと、方言で書かれた文学は言葉のタイムカプセルだなぁと思う。森崎和江さんの自伝も読んでみたい。

 

久坂葉子

 終戦から七年後、21歳で電車に飛び込み生涯を閉じた詩人。曽祖父は川崎造船所創始者だそうで、戦前は華族のお姫様、戦後は没落の一途を辿った激動の人生。 詩は簡易な言葉でつづられ読みやすい。絶望をポンと突き放すような面白さがある。

同時代に自分と同じように自殺未遂を繰り返す太宰治への関心が高かったそう。 戦争は終わったのにふらりと死を選んでしまう時代の昏さはどんなものだったんだろう。

 

【石川逸子】

 1933年生まれだがご存命で長く戦後日本を見つめてきた社会派の作家。 

引用されている「狼・私たち」という詩は、傍観者の罪について考えさせられ、それが今パレスチナで起きていることが思い起こされてゾッとした。

狼が口を血だらけにして兎を食べている

(円陣を作って眺めている私たち)

狼は私たちを見つめ続ける なにげなく 次第に凄まじく

私たちは不安になる でもまた何故

(私たちは見物に来ただけだ ちょっと見物に来ただけ)

 原爆や慰安婦への聞き取りの本なども読んでみたい。

 

【宇多喜代子】

1935年生まれの俳人。 わたしはあまり俳句に馴染みがないのだけど、引用されている石原吉郎氏の〈俳句は否応なしに一つの切口〉であり〈その切断の速さによって、一つの場面をあらゆる限定から解放する。すなわち想像の自由、物語への期待を与える〉という論に導かれる感じがした。

紹介されている宇多さんの俳句の中で、 

眼帯の方の目でみる夏祭

がとても良いなぁと思った。言葉でしか紡げない景色の瞬間。 栄養学を専門とされてるそうで自然や食文化への寄り添いも切実で、エッセイなども読んでみたいと思った。

 

【山本道子】

60年の反安保闘争以降に次々と創刊された詩誌のひとつ「凶区」に参加していた。闘争の時代への反発としてイデオロギーからあえて離れたモダニズムの若い感性。 三年の沈黙ののちに小説家としてデビューし芥川賞も受賞している。詩の世界には戻らなかったそう。

詩作の時代は〈言葉に淫しているようなところがあった〉、散文(小説)に移ってからは〈透明に書きたい〉と思っていたけれど、それが〈水のように流れすぎて、文章そのものが虚ろになってきた〉という対談の引用が面白い。同じ言葉を使いながら詩と小説ってまるっきり違うよね。

 

【倉田比羽子】

 こういうのを思想詩というのか、噛みごたえがあるなと思いながら『幻のRの接点』の抜粋を読む。219行もあるそう。 後半で紹介されている、黒田喜夫「狂児かえる」を引用した「(「私」に先立つもののために)」が面白い。他者の詩を取り込んで新たな世界を作ること。その自由さ。

 

井坂洋子

倉田さんのあとに読むと、わあ読みやすい!とうれしくなる笑 

初期の「朝礼」、遅刻してくる同級生たちを見つめる代表作の最後の二行、

訳はきかない

遠くからやってきたのだ

がすごく好き。その遠さは実際の距離のようにも精神的な距離のようにも読めて結びの「訳はきかない」にさっぱりとした思いやりを感じる。 

生殖器」や「精液」というワードを使うことが当時は過激に受け止められたそうだけど、今読むとそこには何の含みもない。むしろただの名称として女性が呼ぶこと自体への驚きがあったのかなという気がする。

戦争は遠くなり学生運動も過ぎ去った80年代。そこに〈胃袋ではない形の新しい飢え、それこそが行き詰まるような社会への反抗、性を開放的に歌うことが飢餓体験になった〉と著者は見る。 引用されている詩がどれも面白くて、他の詩も読んでみたいなと思った。

 

伊藤比呂美

 湿度のない井坂さんの後に読むとわあ過激!となります笑 

〈女が性を露骨に言うのははしたないことだ〉という圧力のあった時代にこれは確かに衝撃的だっただろうと思う。抽象じゃなくわかりやすい言葉だったのも衝撃が広がりやすかったのかな。 どんな表現の形でもエロスはあるし→そもそも詩はそのベースにある「体感」を強く感じるものだし、詩ならではの性愛の表現の世界は奥深そう。 喋り言葉な文体、問答を仕掛けてくるのに答える隙を与えない独特な句読点の打ち方、という著者の指摘を読むと引用されてる詩もますます面白い。

 

平田俊子

 ラッキョウの詩も夫を捨てる詩もすごく面白い!発想がユニーク。そしてユーモアだけで切り取れるのも詩の良さなのだなと気付かされる。でも笑いって難しいから誰にでもできることじゃない。すごいな、もっと読んでみたいなと思わされる。

後半では「傷」というエッセイについて触れられる。幼い頃に受けた火傷の傷跡を写真に撮ってもらったことを文章で曝け出す。その行為を筆者は〈ほんとうに傷があることをフィクションとして書いたと読める。〉と言う。自己暴露や私小説化ではなく、フィクションとしての発露。

 

小池昌代

 ラ・メール時代に出てきた詩人。

第一詩集の冒頭「はじまり」の

ハイヒールのつま先をまるくして

ことしも春があたたまった

という詩句が若者らしく可愛くて好き。

また、前半だけ引用されている「永遠に来ないバス」より

待ち続けたものが来ることはふしぎだ

来ないものを待つことがわたしの仕事だから

乗車したあとにふと気がつくのだ

歩み寄らずに乗り遅れた女が

停留所で、まだ一人、待っているだろう

待っている女も乗車した女も乗り遅れた女もみんな「わたし」。視点が変わるのもすごく面白い。この詩の後半もぜひ読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

「世界が魔女の森になるまで ー 第30回萩原朔太郎賞受賞者 川口晴美展」

前橋文学館で開催中の「世界が魔女の森になるまで ー 第30回萩原朔太郎賞受賞者 川口晴美展」に行ってきました。私が川口さんの詩を好きになったのは最近なのですが、そのタイミングで展覧会が開かれることを知ったので、これは絶対に行かねば!と気合を入れて待ってました。せっかくなので作品朗読会のイベントのある日に行くことにしました。

 

 

前橋という街に行くことも初めてでした。駅から出たら大きなけやきの並ぶ大通りをまっすぐ進み、川にぶつかったら今度は川沿いに左に向かって歩いて行くと前橋文学館があります。川沿いには大きな柳の木が並んでます。今はまだ工事中のところもありましたが、川沿いの歩道が広くなるそうで、とても良い散歩道だなぁと写真撮りながら歩いていたらすぐに文学館に着きました。

前橋文学館までの川沿いの道

前橋文学館までの川沿いの道

 

詩の展示に行くのは初めてだったのですが、真っ暗な壁や床に光で詩の言葉が映し出されるものや、立っている場所から詩までの距離に変化をつけた展示などがあって面白かったです。また、真っ暗な小部屋の中、テーブルと椅子と蝋燭型の小さなランプとテーブルの上に立てかけられたタブレットだけがあって、その暗くて狭い空間の中でタブレットで川口さんの詩を読むという体験ができる場所がありました。詩集って紙で読むことが多いのであまり暗い場所で読んだことがないですけど、タブレットなら真っ暗な中で詩を読むことができるんだな、集中できていいなって思いました。川口さんの詩は暗い小部屋で読むのが似合う気がします。

円柱からの光で詩の言葉が黒い床や壁に映される

円柱からの光で詩の言葉が黒い床や壁に映される

 

チケットと一緒に渡されるコインでガチャガチャができるようになっていて、詩の言葉が印刷されたキーホルダーがもらえます。グッズまでもらえるなんて実質入場無料みたいなものです!

ガチャガチャのキーホルダー

ガチャガチャのキーホルダー

作品朗読会は、川口さんご本人だけが読まれるのかな、と思ってたのですが、館長の萩原朔美さんと大学生の劇団員さん4名も朗読に参加され、さらにピアノの生伴奏まであってすごく豪華に感じました。実際に聞いてみて、女性の詩が男性の声で読まれる、というのも意外性があって面白いものだなぁと思いました。劇団員さんたちは、皆さんまだ20歳くらいとのことだったのですが、声がよく通って聞き取りやすくてお話も上手で、素晴らしいな〜😭と心から拍手をさせてもらいました。とくに最後の「世界が魔女の森になるまで」は、出演者六人全員による、まるで畳み掛けるような朗読が「多様な声」そのもののようで、とても素晴らしい体験をさせてもらった気持ちです。

また川口さんによる作品解説のお話のなかで、わかったつもりになってはいけないけれど「自分だったかもしれない」と想像することの大切さ、というお話をされてて、私が川口さんの作品が好きなのは本当にそこなんだよなぁと心の中で何度も頷きました。
殺された小学生の女の子について書かれたという「サイゴノ空」を帰宅して再読しました。自分は「たまたま生き残ったのだ」という言葉に共感します。

 

また、劇団員さんたちとのフリートークも面白かったです!劇団員さんたちは群馬や栃木が地元で今もご実家に住まわれているそうで、二時間かけて東京の大学まで通ってる方もいて、たった一度来ただけなのに、前橋思ってたより遠かったわ〜小旅行じゃん…なんて思ってた自分が恥ずかしかったです…
また海辺の街で生まれ育った川口さんと、海のない土地で生まれ育った劇団員さんたちの、海に対する印象の違いのお話も面白かったです。

私も海辺の街で育ち、それこそ高校の裏は浜、みたいな場所だったのですが、わざわざ浜に出て海を眺めながら語り合うなんて青春の一場面もなく、冬の潮風が嫌で窓の隙間に折り畳んだプリントを詰めたりしたこととか、夏になれば校舎内の溝にカニがいたことくらいしか思い出せません😂

海は日常。でもだからこそ、海を見たら帰ってきた、という感じがするのかも。

前橋の人はあの強い風に吹かれたら、帰ってきた、と思うんでしょうか。

前橋の強い風は私にとって非日常でした。帰り道の間に髪が大変なことになりました。それでも昨日よりは全然マシです、とカフェのオーナーさんが言ってました。前日は柳の枝が全部真横に流れていたそうです。取り壊し中のビルの前を通るときはドキドキして早足になりました。
まだ一度しか行ってないけれど、私にとっての前橋は、風が強く、道は広く、大きな木が並び、腰掛ける場所がたくさんあり、綺麗な水が流れ、文学館があり、それらすべてをひっそりと誇るような街に見えました。また機会があったら行きたいなと思います!

 

最後になりましたが、川口晴美さん、企画運営してくださった学芸員とスタッフの方々、出演者の皆さん、とても素敵な時間を過ごさせていただきました。

ありがとうございます!!!

図録も買ってよかったです!!!

 

図録/チケット/イベントパンフレット

図録/チケット/イベントパンフレット



 

ほぼ初めての俵万智の衝撃。『未来のサイズ』を読んで。

俵万智さんの名前はもちろん知ってる。サラダ記念日、その他ふたつかみっつの有名な短歌も知ってる。だけど歌集としてちゃんと読んだことはない、という距離だった。私自身、あまり短歌とか詩とかがわからなくて、でもわからないなりに気になりつつあったそんな折、改めて俵万智の名前が自分の世界に入ってきたのはTwitterだった。放送中の朝ドラ『舞い上がれ!』のヒロインの幼馴染の男の子が(珍しくも)歌人になるという設定で、この朝ドラを見ているらしい俵さんの呟きやこのドラマについて詠んだ短歌などがよくRTなどで流れてくるようになった。時をおかずしてNHKのプロフェッショナルという番組で俵万智さんの回が放送されて、ますます気になったところであれこれ検索し、『短歌研究』という雑誌の特集「俵万智の全歌集を『徹底的に読む』」(渡辺祐真)を見つけて読み、ついにはこの最新歌集『未来のサイズ』を買って読んだ。

衝撃でした。

 

制服は未来のサイズ入学のどの子もどの子も未来着ている

この最新歌集は2020年出版。2011年から石垣島へ移住し、2016年に息子さんの進学に合わせて熊本に移住し、そして迎えた2020年のコロナ禍までの日々がベースにある。

本のタイトルにもなったこの短歌はお子さんの中学入学準備の日々を写す。
どんな人でも想像しうる、シンプルだけどすごくいい歌だなと思う。

私自身、子供の中学の制服のサイズ合わせに行ったばかりだったので、とても共感できた。中学三年間は伸びると一般的にそう言われているけど、どのくらい大きくなるかなんてわかるはずもなく、制服を売る洋品店のおじいさんの見立てのままにぶかぶかの制服を注文した。それは確かに「未来のサイズ」。

「未来のサイズ」という言葉の的確さに唸り、まだぶかぶかで似合わない制服を着て落ち着かなさげな子供たちのいる入学式の風景が浮かび、「未来着ている」という素敵な言葉にグッとくる、そんな特別な歌。

 

だけど同じ歌集の別のページにある短歌を読んだとき、「未来のサイズ」を読んだときの多幸感が真っ黒に塗りつぶされた気がした。

 

あの世には持っていけない金のため未来を汚す未来を殺す

本歌は2014年に韓国で起きたセウォル号の沈没事故について詠まれた短歌の中の一首だ。常にユーモアやときめきのある俵さんの歌の中で、このセウォル号について詠まれた短歌たちは明らかに異色だった。言葉から滲み出る圧倒的な、怒り。

「未来」という共通ワードで「未来のサイズ」と私の頭の中で結びついたとき、あぁと深いため息が出て悲しくて悲しくてしょうがなくなった。

韓国も制服のある国だから、セウォル号に乗ってた高校生たちも制服を着ていただろう。身体より少し大きな制服を着て保護者と入学式に出ただろう。事故に遭ったときは2年生だったそうだから制服はそろそろぴったりだったかもしれない。翌年には制服は人によってはもう小さくなってしまって、早く脱ぎたいと思いながら受験勉強で多忙を極めただろう。制服を着る最後の日、卒業式を待ちわびながら。

少し大きいけどこれでいいね、と制服を買った保護者たちは、卒業を待たずに子供と別れる日が来るなんて思いもしてなかっただろう。

そんなことを想像したら泣けてしょうがなかった。

 

 

もちろんそういう思いをするばかりではなくて。

四年ぶりに活躍したるタコ焼き器ステイホームをくるっと丸め

あの休校期間の、家にいるしかない子供の生活をどう彩るかあれこれ考えたり、それに疲れたりした日々が突然思い出されたり、

ひとことで私を夏に変えるひと白のブラウスほめられている

あぁ、やっぱり恋の歌、お得意ですね!!!と感嘆したり、

生き生きと息子は短歌詠んでおりたとえおかんが俵万智でも

吹き出したり。

誰かを思って泣いたり、ただ何も考えずに笑ったり、忘れてたはずなのに不意に記憶の蓋がこじ開けられて驚いたりした。こんなに心揺さぶられるなんて思わなかった。もっとあれこれ言及したい短歌がたくさんある。のでよかったら誰か読んでみてください。この歌いいよね、この歌すごいよね、って話をしたいです。

ほぼ初めての俵万智、衝撃でした。

 

 

 

 

 

2022年12月に読んだ本

イザベラ・ディオニシオ『イタリア人が偏愛する日本近現代文学

現代から、そして女性から見たツッコミ視点がメインなのだけど、とても面白く愛情深く紹介されていて、名前しか知らなかった名作たちを読みたくなる。全体としてとても良い近代文学ガイドだなと思いました!まあそれでも『蒲団』は相当キモいな…と思ったけど😂 あと夏目漱石『こころ』は各国で翻訳されているけど「お嬢さん」「先生」は言葉の持つニュアンスの置き換えが難しく、「ojosan」「sensei」とそのままローマ字表記でなんとなく通じている、という翻訳のお話なんかもごく面白かった。

 

 

太宰治ヴィヨンの妻

先月からちょびちょび太宰の短編読み進めてるけどほんとどれも面白いし読みやすいな〜。 『女を書けない〜』でもピックアップされてるけど本作中の妻さっちゃんは確かによくわからない。世間知らずと世間ずれが同居してる感じ。夫が代金を踏み倒してる飲み屋に働きに行くのに〈あすまた、あのお店へ行けば、夫に逢えるかも知れない。〉と言ってたのがちょっと八百屋お七を連想したけど、でもそこまで執着してる感じもないのよね。

 

 

千葉一幹現代文学は「震災の傷」を癒せるか 3•11の衝撃とメランコリー』

そういえば震災文学あんまり読んでないなぁということに気付いた。震災の経験を言語化することへのためらい、物語の欺瞞に向き合うことについてなど。とくに第一章が面白かった。

 

 

 

高橋源一郎斎藤美奈子『この30年の小説、ぜんぶ』

現代文学は〜』でも取り上げられていた『恋する原発』『神様2011』『馬たちよ、それでも光は無垢で』など震災文学についても詳しい。

 

 

文月悠光『洗礼ダイアリー』

布団のドームの中で本を読んでいた子供の頃のエピソードの、その文章が好き。こちらはエッセイだけど次は詩集読みたい!

 

 

盛可以『子宮』(訳/河村昌子)

家父長制の強い国における妊娠は政治問題。特に中国の一人っ子政策はまるで子宮の管理そのもののよう。本書はそのルール下で生きる、ある家族の三世代の女性たちの様々な人生を描いた大河小説。ドキュメンタリー映画『一人っ子の国』で見せられたことを思えば、すごくマイルドに描かれているように思うんだけど、国内で出版する以上色々あるんだろうなと思う…。今年は中国の小説を2冊読んだな。

 

 

僕だって猫の話をしていたい〜歌わせたい男たち

 

 高校の卒業式当日の朝、今年も国歌斉唱時の不起立を表明している歴史教師、起立して国歌斉唱してほしい校長と若手の英語教師、よく事情を知らずあわあわしている元シャンソン歌手の音楽講師、なぜか全員が集まってきてしまう保健室の先生によるドタバタ悲喜劇。

 

 

 初演は2005年。

 日の丸・君が代をめぐる動きとしては、1999年国旗・国歌法成立、2003年都教育委員会が都内公立校向けに「10.23通達」(式典における国旗掲揚、国歌斉唱についての細かい指導通達)、2004年不起立だった都内公立校教職員248人を処分、2005年は64名が処分されている。

 私は初見なんだけど、今見ても面白いのはもちろん、今2022年に再演することで当時を振り返る意味は大きいんじゃないかと思った。

 

 

 君が代を歌う、たった40秒、どうして自分を曲げられないのかと校長は執拗に拝島(君が代斉唱を拒否する教師)に問い続ける。

 だけど本当に問われるべきは、たった40秒、他者が自分の意思を表明することになぜあなたは反対するのか、ということだ。

 そしてそれを問われるべきは目の前にいる校長のみならず、その背後にある強烈な同調圧力。それが「歌わせたい男たち」だ。

 

 

 パンフレットの対談で永井愛さんが、この芝居をロンドンでやらないかと打診を受け企画書を送ったら「ロンドン市民には理解されない。」「もしロンドンでこんなことが起きたら、他の先生たちや保護者が黙ってない、デモになる。」と言われたそう。日本ではそれがなぜか処分する側とされる側の争いになってしまうと。

 「個人」や「人権」よりも「誰か知らないえらい人が決めたこと」のほうが大事だと思ってしまう、思わされてしまう、この国の空気はどこから来るんだろう。やっぱり教育なんだろうかとモヤモヤと終わった後もずっと考えている。

 

 

 また初演時より今の日本は貧しくなり労働時間は増えて、政治的なことに自分の意思を貫き通す気力が削がれてしまってる気がする。

 僕だってガチガチの左翼なんて言われたくない、本当は猫の話をしたいんだ、と項垂れながらも不起立を貫こうとする拝島のような教師はまだ存在するだろうか。

 また拝島が仲(君が代の伴奏をする音楽教師)に対して、独身なら(自分の意見を押し通しても)いいじゃないですか、という台詞がある。実家には頼れない未婚の女が一人で生きていくことの大変さ、ましてや講師の立場。こんなことで職を失うわけにはいかないのだ、という仲の言葉の切実さは2022年の今聞く方が重いだろうと思った。

 

 

 ちなみに重い題材ではあるけど劇中はゲラゲラ笑い通し。まさにワンシチュエーションコメディ。登場する5人の役者さんたちがみんなめちゃめちゃ上手いのでたくさん笑わせてくれた。またラストではキムラ緑子さんの歌声と立ち姿が本当に美しくてしみじみよかった。

 劇中で「笑わせんな、泣きたいのに」という台詞があるのだけど、観客席のわたしも笑ったり泣いたりゾッとしたりまた笑ったりと感情大忙しだった。

 観に行けてよかったです!

2022年11月に読んだ本



方方『棺のない埋葬』(訳/渡辺新一)

土地改革に翻弄された家族とその子孫の記憶をめぐる物語。隠された父母の物語ももう知りたくないと思う人、忘れ去られていく歴史を正しく記録しておくべきだと思う人。互いの決断をリスペクトしながら交錯する、この物語が今この現代に持つ意味は大きいんじゃないかと思う。「個人は記憶する必要はないですが、歴史と民族は記録することが必要です」というのはあとがきの著者の言葉。当事者/非当事者の互いへの思いやりのようなものも感じる。歴史の分断を経験したという意識が中国は強いのかもしれない。一方で歴史と向き合いたくないという気持ちばかり増幅する今の日本の社会についても考えさせられた。不都合な歴史が隠されるのはどの社会でもありうることだけど、そうさせないのは歴史を知ることと学ぶことの意味や意義を社会でちゃんとシェアできているか、やっぱり教育の問題なのかな…ということも考えた。

歴史について、何より今語られるべき物語だった。

本作は本国では回収済みとのこと。

 

 

キム・エラン『走れ、オヤジ殿』(訳/古川綾子)

「海辺でやたらと花火を上げるのは誰だ」がとても好きで何度も読み返した。亡き母との思い出話を父にせがむ少年。詩的な言葉の連なりをぶった切る「嘘だ」に笑ってほろりとする。

 

 

ヤン・ヨンヒ朝鮮大学校物語』

 

『スープとイデオロギー』を見たポレポレ東中野にて購入。なんとなく未読だったのだけどNHKヤン・ヨンヒ監督のドキュメンタリー見た勢いで一気に読んだ。特殊で厳しいルールの中で自由な魂を持ち続けることは素敵だけどあまりに苦しい。またほぼ現実をトレスしてると思われる、日本社会における在日朝鮮人朝鮮人学校への差別の描写がエグかった。

監督にとって表現方法は手段なんだなって思う。カメラを向けられれば映像で撮るし、カメラを向けられなかったり監督がその場にいなければ、実写フィクション、アニメ、小説、とその手段でしか見られない景色を見せてくれる。だからこの物語も小説だから描けるシーンがたくさんあった。

https://twitter.com/jamko29/status/1589160211872641025?s=20&t=dkGQiBtQGaubFIqRa__d8A

 

 

中村きい子『女と刀』

 

キヨさん、キャラが強過ぎてまあ煙たがられるだろうな…と思う笑 でもやることなすことぴしっと筋が通ってるし、なにより人生について深く考える様がかっこよくて痺れるんですよ。

刀はないのでせめてこの本を枕元に置いておこうか…

あと薩摩の田舎から見る明治大正昭和初期の激動の日本が新鮮。なんだかんだいって敗戦してやっと身分制度が崩れたんだなぁとか。歴史や物語も中央を舞台にするものが多いけど、田舎はまるで別世界。

 

 

ミア・カマンスキ『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』(訳/末延弘子)

面白かったー!枕草子が好きすぎるフィンランド人ミアさんが京都まで来てセイこと清少納言を追い求める。読みながら一緒に旅してるようですごく楽しかったし、私も清少納言のことが好きになってしまったな!

清少納言平安時代に思いを馳せるだけでも楽しいけど、ミアさんの旅行記としてもほんと面白い。暑すぎて寒すぎるゲストハウスの日々はおかしいし、京都の隅々まで自転車で駆け抜ける行動力にも驚く。そしてミアさんは東日本大震災のときも京都にいた。それぞれに大変だった日々を思い出したりした。

作中でヴァージニア・ウルフ源氏物語への書評の話が出てきて、文藝の源氏物語特集号に掲載されたのを読んだことを思い出した。また枕草子といえば『枕草子のたくらみ』が面白いのでまた読み返したくなった。英訳版があればミアさんにお届けしたい…!

あと枕草子源氏物語は直筆のものは一枚も残ってないのに道長日記は全部あるとか、平安の才能ある女性作家たちがいかに悪様に語られていたこととか、大英図書館枕草子を検索したらポルノばっかり出てくるとか(なぜ!)、女たちの物語が軽く見られてきた長い長い歴史についても考えさせられる。

訳者さんのあとがきによれば本書は本国フィンランドで評判が良くたくさんのメディアに取り上げられたそう。枕草子清少納言について詳しく知るフィンランド人が増えると思うと面白いね。

 

 

カミーラ・シャムジー『帰りたい』(訳/金原瑞人、安納令奈)

最愛の家族がISに入ってしまったら?

勧誘に引き込まれてしまった弟の心情とそれを知った姉たちの絶望。そこにムスリム系の大臣とその息子が関わったことがイギリスを揺るがす事態に発展していく。引き込まれてほぼ一気読み!

作者のカミーラ・シャムジーさんはパキスタン生まれ、アメリカで創作を学び英国に移住し英国籍を取得してる。国という権力にあっさりと国籍が奪われる恐ろしさは小説にも描かれていたが、著者本人の経験が元になっているそう(訳者あとがきより)。

 

 

木村紅美『あなたに安全な人』

担任した生徒が自殺した過去を持つ女性、沖縄基地反対派の女性と揉み合いになり怪我をさせたかもしれない男性、コロナ禍で都会から引っ越してきて白い目で見られ孤独に亡くなった男性。全く無関係の3人がクロスする地点、この殺伐感があまりに今の日本。

自分にとって「安全な」場所で気付けば誰かを踏んでいる。自分が誰かにとって「安全」でない人になっている。そして取り返しのつかない痛みが自分の中にも残り続けるのだ。

 

 

茨木のり子『個人のたたかいー金子光晴の詩と真実ー』

同じ詩人である茨木のり子による金子光晴の評伝。波乱な人生そのものがもちろん面白いのだけど、やっぱり真骨頂は戦前や戦中、全体主義が文学の世界にも襲いかかるなかでも抵抗者であり続けたこと。「寂しさの歌」を何度も読み返す。

 

 

茨木のり子『貘さんがゆく』

同シリーズの金子光晴の評伝が面白かったので続けて沖縄出身の詩人・山之口貘の評伝も読んだ。「朝鮮人・沖縄人お断り」の張り紙が出されるような時代に上京し、貧困暮らしでありながら亡くなるまで飄々とした詩人であり続けた人。生涯で4冊の詩集だけを残した。あからさまな反戦詩は書かなかったが賛美詩も絶対に書かなかった。戦争による生命軽視をネズミの死で風刺した「ネズミの詩」は検閲にも見抜かれなかったそう。

茨木さんによると貘さんは〈時代からの影響を受けることのすくなかった詩人〉であったことが同時代を生きた宮沢賢治と似ているそう。

このシリーズの良いところは詩も収録されているところ。評伝と併せて読むと理解が深まる感じがする。

 

 

アニー・エルノー『嫉妬/事件』(訳/堀茂樹・菊地よしみ)

著者は今年のノーベル文学賞を受賞。初読みです。

『嫉妬』は別れた恋人の新しい恋人への偏執的な興味を、『事件』は中絶が違法だった時代に中絶手術をした経験を描いた短編。『事件』は映画化され来月公開される。

訳者あとがきで「人工的」ではない文体について指摘があるけど、たしかに視点は彼女自身でその内面にも深く踏み込むのにドキュメンタリーのような乾きがあってその文体に引き込まれた。井上たか子氏による『事件』および世界と日本における「中絶」についての解説もわかりやすくてよかった。

『事件』を映画化した『あのこと』はヴェネチア映画祭で金獅子賞を獲った。こちらオンライン試写にて観賞。いつまでたっても「女の問題」扱いだった中絶問題に正面から向き合ったこの映画が評価されたことが嬉しい。この映画を見た人はきっと想像できると思う。望まぬ妊娠をするということがどれほど恐ろしいことか。アニー・エルノーの文体をなぞるような映像表現。 ただ知ってほしい、という強い意志を原作からも映画からも感じた。

gaga.ne.jp

 

 

東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』

TLで見かけて面白そうだったので読んでみた。執筆者の面子がすごい。やたら国威や戦争と結びつける石原慎太郎、競技に夢中な三島、政治介入とナショナリズムの行方を憂う小田実、秋晴れの開会式に雨の学徒出陣を思い出す杉本苑子

「原爆の子」がつとめた聖火ファイナルランナー、アフリカからやって来たたった数人の選手団、直前で帰国となった北朝鮮インドネシア、記録映画のこと。大河ドラマ・いだてんを久しぶりに見返したくなった。2020は作家さんの観戦記などあったんだろうか…

そういえば北野武の自伝的小説「足立区島根町」で10代だった自分から見た東京オリンピックを書いていてそれも面白かったということを思い出した。

 

 

高橋源一郎『たのしい知識 ぼくらの天皇憲法)・汝の隣人・コロナの時代』

先月読んだ『ぼくらの戦争なんだぜ』が面白かったので。話題は多岐に渡るが、アナキスト金子文子、日本で獄中死した詩人・尹東柱、そしてハングルを学んだ日本の詩人・茨木のり子についてのトピックが興味深かった。

 

 

木下龍也『オールアラウンドユー』

短歌集を初めて買った。木下さんの短歌、好きだなぁ。

 

 

以下は文芸誌、青空文庫などから読んだ短編。

・小川哲「神についての方程式」(文藝2022冬号)

面白かった!地球最後の宗教についてのSF短編。宗教が科学と結びつくと強いというのはめちゃわかる一方、不合理だからと宗教が途絶する未来はなかなか想像がつかない。「大断絶」に何があったのか気になる。小川さんの宗教テーマにした長編読みたいな!

 

・王谷晶「てづから」(文藝2022冬号)

自分と違うことへの怒りや不寛容が他者への攻撃に転じてしまう人が主人公。〈誰もが思っていても言わないことを言ってやった。〉

自分の価値観に縛られ他者の表面しか見ずにこき下ろすことの無為。それが無視することのできない目の前の現実なのがしんどいなぁ。

 

 

 

太宰治富嶽百景」「姥捨」「満願」「灯籠」「惜別」「散華」(青空文庫

高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』で太宰が戦時中に発表した小説として紹介されていた「満願」「惜別」を含めて初期の作品をいくつか。評伝などと合わせて中後期の作品も読んでみたい。

 

・原田皐月『獄中の女より男に』(青空文庫

堕胎の罪に問われた女の手記。「児の為に児を捨てた」と言う女に裁判官が激昂して危険思想だ人類の滅亡だと言い募る。それに対する女の「人類があつてから私があるのではありません」という返答に胸がすく。このテクストを機に堕胎論争が起きたそう。

キム・エラン×中島京子対談「小説家としての過去、今、そしてこれから」@K-BOOKフェスティバル2022を観覧してきました

「ひこうき雲」とK-BOOKフェスのチラシ


今日はK-BOOKフェスティバルにて、キム・エラン×中島京子対談「小説家としての過去、今、そしてこれから」を観覧して来ました。

いろいろ忘れないうちにメモに起こしておこうと思います。

とりあえずの所感としてはキム・エランさん、声が!お優しい!!!

直近で聞いていた韓国語がドラマ「私たちのブルース」だったので、済州島の中年の人たちの威勢の良い喋り方とのギャップがすごかったです。笑

以下、殴り書きのようなメモからのざっくりした書き起こし(なので正確じゃないかもしれないけど許してほしい)です!

 

『過去』について

中島京子さんとキム・エランさんの出会いは2014年の北京で開催された東アジア文学フォーラムでのこと。エランさんはとても緊張されていたようで、隣の隣の席にいた中島さんが何かジョークのようなことを言って和ませてくれたこと、中島さんが転んだ時にエランさんが日本語で「大丈夫ですか?」と声をかけたところ、「日本語話せるの?」とびっくりされたことなどをお話ししてくれました。

 

『現在』について

中島さんは、非正規の外国人をテーマにした小説を準備中だったがコロナで取材などができなくなったこと、また「家のない人はステイホームできない」と言うことに気付かされ、コロナが炙り出した格差を目の当たりにしたことをお話しされました。

エランさんは、コロナ禍では動きが制限され、収入が減り、まるで老後の予習をしているようだったと。自分は孤独な生活が好きな方だが、自発的な孤立と非自発的な孤立は違うことを知った、また小説のプロットと現実のプロットは全然違うこと、望むようなプロットは現実はない、ということをお話しされました。

また、翻訳家で進行役の古川綾子さんが、エランさんの未邦訳の「ホームパーティー」という作品を紹介され、マスク描写などについて触れられました。エランさんは本作でコロナ禍における経済の問題を描きたかったそうです。

また中島さんはミヒャエル・エンデ「モモ」を読み返したそうで、コロナ禍の「不要不急」と「時間泥棒」を重ね、「灰色の男たちが正しい顔をして現れる」ということが目の前の現実で起きているようだというようなお話もされました。

 

ひこうき雲』について

韓国で刊行されたのは2012年。初期作のように自分の話だけでなく、自分とは違う境遇の人たちの物語を書こうと思ったこと、当時の社会の空気が作品にも染み込んでいると思う、とエランさん。

中島さんがここでお二人の出会いであった東アジア文学フォーラムの話を再び。北京から青島に移動し、ビール工場でみんなでビールを飲みながら朗読会が開かれたこと、そこでエランさんが朗読した「かの地に夜、ここに歌」の一節がとても素晴らしかったという思い出を話してくださいました。

「かの地に夜、ここに歌」は死者と生者が言葉で対話する物語。どうしてこの題材を?という中島さんの問いにエランさんは、言語に対する愛、外国の言葉への好奇心がある、と答えられました。(「外は夏」でも滅びゆく言語についての話を書いた、と話されていたのは「沈黙の未来」という短編のことですね)

また原題の「飛行雲」には「非幸運」の意味がかかってるということについて、エランさんは、広いカッコのような、いろんなものを抱けるようなタイトルにしたかったこと、短編それぞれはそういうタイトルではなかったので、短編集の名前はそういう名前にしたかったと話されました。

また中島さんが「水の中のゴリアテ」「虫」について、この二作は似ている、まるで神話のようだ、と。エランさんは、地球が病んでいるという怖さについて書いた物語、社会的脈絡で捉えられがちだが、人間のうちなるもの、神話的なものを描きたかったので中島さんがそう言ってくれて嬉しいと話されました。

またエランさんは、作品に込められた社会的メッセージについて質問されてそれに対して良い回答をしても家に帰ると落ち込む、自分がバスの中で一番いい場所に座っているような気持ちになる、と。

昨年のK-BOOKフェスティバルに登壇された星野智幸さんがお話しされる時、まず手話の通訳さんに向かって「手首は大丈夫ですか」と話しかけられたのがとても印象に残っているそう。エランさんは自分はそんなこと考えもしなかった、他者に対する想像力とはこういうことだと。見上げることも見下げることもなく真っ直ぐに愛情を持って人間を描いていきたい、というお話をされました。(ちなみに星野さん、会場におられました)

また中島さんは「一日の軸」という作品について、人間は五十も過ぎるといろんなことを忘れるし自分を労らなきゃ生きていけない、とても共感して読んだ、この物語は絶妙に哀しさとおかしさが同居している、ととても楽しそうにお話しされました。

エランさんはこの作品について、物語の舞台である空港という場は、さまざまな言語、さまざまなお金、さまざまな排泄物が入り混じる場所、捨てられるものや忘れられるものがある場所であること、またエランさんのお母様のように仕事をしている中年女性を描きたかったそうです。

 

お互いへの質問

エランさん「中島作品のユーモアについて知りたい。初期作品のユーモアを持ち続けるのは難しいことだと韓国の作家から聞いたことがあるが、中島作品は初期作品より最近の作品の方がよりユーモラスだが」

中島さん「イタロ・カルヴィーノの『文学講義』を読んだが、物語や言葉はそのものに重力がある、その重さを取り除くことについて書かれていた。人生は軽くない。だからそれをそのまま書くともっと重くなっていく。特に日本語はウェット。現実は重くて暗い、でもそれだけじゃないという一面を小説は切り取って見せることができる」

中島さん「小説が翻訳されることについてどう思われますか」

エランさん「翻訳というのは言葉と言葉、文章と文章を置き換えるだけではない。翻訳家はその作品に体を貸すような仕事。翻訳家の経験、記憶、歴史によって言葉は変わる。海外での刊行イベント、日本では餅をもらった時に、それをくれた人のことや日本の餅についてあれこれ想像を巡らせた。逆に物語をもらって帰る気持ちになる」

エランさん「中島作品は全世代のキャラクターが公平に描かれている。(ここで花と葉を例にしたお話が出たのですけど、ちょっとよくわからなくてメモ断念)」

中島さん「いろんな人の声が響くような話が好き。エランさんの作品もまさにそのような作品だと思います」

 

未来について

エランさんは、韓国の居住空間について書くのにこだわりがある、コロナ禍による変奏のような作品を書きたい、とおっしゃってました。

 

 

トークショーのメモ、以上です!

キム・エランさん、中島京子さん、進行役の古川綾子さん、通訳さん(おひとかたは翻訳家のすんみさんでした)、スタッフさん、ありがとうございました!!

個人的には、もしQ&Aの時間があって質問に当たればそれについて聞きたいと思うくらいに、エランさんの作品の居住空間描写気になってたので、最後にその話が少し出たのがとても嬉しかったです。

というかお花か何か持っていけばよかった。。。とサインもらって帰る頃に思いました(そういうことに気付くのがいつも遅い)。またぜひお待ちしています!

 

 

K-BOOKフェスティバルは今回初参加だったのですが、読みたい本がたくさんあって楽しかったです!来年はもっとお金持っていくぞー