キム・エラン×中島京子対談「小説家としての過去、今、そしてこれから」@K-BOOKフェスティバル2022を観覧してきました

「ひこうき雲」とK-BOOKフェスのチラシ


今日はK-BOOKフェスティバルにて、キム・エラン×中島京子対談「小説家としての過去、今、そしてこれから」を観覧して来ました。

いろいろ忘れないうちにメモに起こしておこうと思います。

とりあえずの所感としてはキム・エランさん、声が!お優しい!!!

直近で聞いていた韓国語がドラマ「私たちのブルース」だったので、済州島の中年の人たちの威勢の良い喋り方とのギャップがすごかったです。笑

以下、殴り書きのようなメモからのざっくりした書き起こし(なので正確じゃないかもしれないけど許してほしい)です!

 

『過去』について

中島京子さんとキム・エランさんの出会いは2014年の北京で開催された東アジア文学フォーラムでのこと。エランさんはとても緊張されていたようで、隣の隣の席にいた中島さんが何かジョークのようなことを言って和ませてくれたこと、中島さんが転んだ時にエランさんが日本語で「大丈夫ですか?」と声をかけたところ、「日本語話せるの?」とびっくりされたことなどをお話ししてくれました。

 

『現在』について

中島さんは、非正規の外国人をテーマにした小説を準備中だったがコロナで取材などができなくなったこと、また「家のない人はステイホームできない」と言うことに気付かされ、コロナが炙り出した格差を目の当たりにしたことをお話しされました。

エランさんは、コロナ禍では動きが制限され、収入が減り、まるで老後の予習をしているようだったと。自分は孤独な生活が好きな方だが、自発的な孤立と非自発的な孤立は違うことを知った、また小説のプロットと現実のプロットは全然違うこと、望むようなプロットは現実はない、ということをお話しされました。

また、翻訳家で進行役の古川綾子さんが、エランさんの未邦訳の「ホームパーティー」という作品を紹介され、マスク描写などについて触れられました。エランさんは本作でコロナ禍における経済の問題を描きたかったそうです。

また中島さんはミヒャエル・エンデ「モモ」を読み返したそうで、コロナ禍の「不要不急」と「時間泥棒」を重ね、「灰色の男たちが正しい顔をして現れる」ということが目の前の現実で起きているようだというようなお話もされました。

 

ひこうき雲』について

韓国で刊行されたのは2012年。初期作のように自分の話だけでなく、自分とは違う境遇の人たちの物語を書こうと思ったこと、当時の社会の空気が作品にも染み込んでいると思う、とエランさん。

中島さんがここでお二人の出会いであった東アジア文学フォーラムの話を再び。北京から青島に移動し、ビール工場でみんなでビールを飲みながら朗読会が開かれたこと、そこでエランさんが朗読した「かの地に夜、ここに歌」の一節がとても素晴らしかったという思い出を話してくださいました。

「かの地に夜、ここに歌」は死者と生者が言葉で対話する物語。どうしてこの題材を?という中島さんの問いにエランさんは、言語に対する愛、外国の言葉への好奇心がある、と答えられました。(「外は夏」でも滅びゆく言語についての話を書いた、と話されていたのは「沈黙の未来」という短編のことですね)

また原題の「飛行雲」には「非幸運」の意味がかかってるということについて、エランさんは、広いカッコのような、いろんなものを抱けるようなタイトルにしたかったこと、短編それぞれはそういうタイトルではなかったので、短編集の名前はそういう名前にしたかったと話されました。

また中島さんが「水の中のゴリアテ」「虫」について、この二作は似ている、まるで神話のようだ、と。エランさんは、地球が病んでいるという怖さについて書いた物語、社会的脈絡で捉えられがちだが、人間のうちなるもの、神話的なものを描きたかったので中島さんがそう言ってくれて嬉しいと話されました。

またエランさんは、作品に込められた社会的メッセージについて質問されてそれに対して良い回答をしても家に帰ると落ち込む、自分がバスの中で一番いい場所に座っているような気持ちになる、と。

昨年のK-BOOKフェスティバルに登壇された星野智幸さんがお話しされる時、まず手話の通訳さんに向かって「手首は大丈夫ですか」と話しかけられたのがとても印象に残っているそう。エランさんは自分はそんなこと考えもしなかった、他者に対する想像力とはこういうことだと。見上げることも見下げることもなく真っ直ぐに愛情を持って人間を描いていきたい、というお話をされました。(ちなみに星野さん、会場におられました)

また中島さんは「一日の軸」という作品について、人間は五十も過ぎるといろんなことを忘れるし自分を労らなきゃ生きていけない、とても共感して読んだ、この物語は絶妙に哀しさとおかしさが同居している、ととても楽しそうにお話しされました。

エランさんはこの作品について、物語の舞台である空港という場は、さまざまな言語、さまざまなお金、さまざまな排泄物が入り混じる場所、捨てられるものや忘れられるものがある場所であること、またエランさんのお母様のように仕事をしている中年女性を描きたかったそうです。

 

お互いへの質問

エランさん「中島作品のユーモアについて知りたい。初期作品のユーモアを持ち続けるのは難しいことだと韓国の作家から聞いたことがあるが、中島作品は初期作品より最近の作品の方がよりユーモラスだが」

中島さん「イタロ・カルヴィーノの『文学講義』を読んだが、物語や言葉はそのものに重力がある、その重さを取り除くことについて書かれていた。人生は軽くない。だからそれをそのまま書くともっと重くなっていく。特に日本語はウェット。現実は重くて暗い、でもそれだけじゃないという一面を小説は切り取って見せることができる」

中島さん「小説が翻訳されることについてどう思われますか」

エランさん「翻訳というのは言葉と言葉、文章と文章を置き換えるだけではない。翻訳家はその作品に体を貸すような仕事。翻訳家の経験、記憶、歴史によって言葉は変わる。海外での刊行イベント、日本では餅をもらった時に、それをくれた人のことや日本の餅についてあれこれ想像を巡らせた。逆に物語をもらって帰る気持ちになる」

エランさん「中島作品は全世代のキャラクターが公平に描かれている。(ここで花と葉を例にしたお話が出たのですけど、ちょっとよくわからなくてメモ断念)」

中島さん「いろんな人の声が響くような話が好き。エランさんの作品もまさにそのような作品だと思います」

 

未来について

エランさんは、韓国の居住空間について書くのにこだわりがある、コロナ禍による変奏のような作品を書きたい、とおっしゃってました。

 

 

トークショーのメモ、以上です!

キム・エランさん、中島京子さん、進行役の古川綾子さん、通訳さん(おひとかたは翻訳家のすんみさんでした)、スタッフさん、ありがとうございました!!

個人的には、もしQ&Aの時間があって質問に当たればそれについて聞きたいと思うくらいに、エランさんの作品の居住空間描写気になってたので、最後にその話が少し出たのがとても嬉しかったです。

というかお花か何か持っていけばよかった。。。とサインもらって帰る頃に思いました(そういうことに気付くのがいつも遅い)。またぜひお待ちしています!

 

 

K-BOOKフェスティバルは今回初参加だったのですが、読みたい本がたくさんあって楽しかったです!来年はもっとお金持っていくぞー