救われても、救われなくても。(キム・エラン『ひこうき雲』訳/古川綾子 )

キム・エランさんの最新短編集『ひこうき雲』が期待以上に素晴らしくて何度も読み返している。その中でも「水中のゴリアテ」は今回感想を書くために何度も何度も読み返したけど本当に圧倒された。

彼女の描く物語はどれも楽しい状況とは言い難いし、わかりやすいハッピーエンドにも落ち着かない。だけど幸や不幸のずっと先にある、人間の図太さのようなものが見える気がして妙に元気が出る。

来月の対談イベント申し込んだのですごく楽しみです

 

「水中のゴリアテ

これは「取り残された人」の物語だ。

主人公は家庭内で恐らく唯一の稼ぎ手であった父を事故で失なったばかりで、母と二人でマンションに取り残されている。郊外にあるそのマンションには何年も前から立ち退き命令が出ており、徐々に住人は減ってついに主人公と母の二人だけが住んでいる。電気とガスはすでに止められていた。

父が死んですぐから降り出した大雨は止むことなく、延々と降り続いた。マンションのある村へ続く道が遮断され、そして水も止まった。

そしてある朝、主人公がベランダに出ると、村はすっかり水没しており自分達の足元まで水面が迫っていることに気づくのである。

 

この物語を頭の中で想像すると、津波や大雨による冠水などで家の中に取り残され、家屋の二階のベランダや建物の屋上から上空に向かって手を振る人たちを映したニュース映像が思い出される。彼らは救助隊や自衛隊らの手によって救い出される。だからきっと自分達が同じような目に遭っても、きっと誰か助けに来てくれるだろうと信じている、と思う。

だけどこの物語の主人公には助けが来ない。雨も止まない。

たった一人になった時に彼は気づく。

僕たち、忘れられてるんじゃないか?

 

主人公と母を取り残していったのは「社会」そのものである。

そもそも主人公と母は、唯一の稼ぎ手である父親が死んだことで生活が詰んでしまっていた。20年かけて返済を終えたマンションを立ち退くための補償金では新しい家は買えなかった。

父は熟練の溶接工だった。自らの住居を奪われそうになりながらも、日々新しい建設物を建てるために真面目に働いた。亡くなったのは、賃金未払いに抗議するためタワークレーンを占拠しての座り込みデモの最中であった。

真面目に生きた父とその家族に、「救助」の手は差し伸べられなかった。

 

そしてこの水没した世界で取り残された物語が、決してメタファーではないことを私たちは知っている。日本では東日本大震災によるあの津波を、韓国ならセウォル号のことを思い出す人がいると思う。

救助は来ると信じながら叶わずに亡くなった人たちがいた。人間の祈りなど聞こえるはずもない自然の圧倒的な力の前にどうしようもなかったこともあるだろう。だけどもしかしたら、何かが正しく機能していたなら、救えたかもしれない人たち。

 

ゴリアテ」とは「旧約聖書」に登場する巨人兵士の名前だ。

サウル王治下のイスラエル王国の兵士と対峙し彼らの神であるヤハウェを嘲ったが、羊飼いの少年であったダビデが投石器から放った石を額に受けて昏倒し、自らの剣で首を刎ねられ絶命した。この故事にちなんで、立場的に弱小な者が強大な者を打ち負かす喩えとしてよく使われる。

(ウィキペデアより)

本作における「ゴリアテ」はタワークレーンだ。富の象徴としてのタワークレーンは主人公の父の死に場所にもなった。だけどそんな父の夢だったマンションを作ったのもタワークレーンだったし、最後には主人公にとって束の間の休息を得る場所となった。

スクラップ&ビルドのこの国で、もはやタワークレーンは善でも悪でもあった。

 

物語の最後は決して幸せとは言えないだろう。

だけどこんな過酷な状況で全てを剥ぎ取られても、人間が人間たる所以だけが最後に残る。それはそうしたいと思ったからとか、そうあるべきだと考えたからでもない。それが人間の「自然」なのだと思う。

どうすることもできない自然の力にも、横暴な社会にも、決して奪うことができないもの、圧倒的な「自然」が自分の中にもあるというシンプルな事実がただそこに残る。

消えそうな淡い思い出も、諦めきれない祈りのような願いも、私たちの中に残る。

救われても、救われなくても。

 

 

「虫」

ローズアパートという古いマンションに越してきた若い妻が、車や工事の騒音と虫の被害に悩まされる話。ラストの幕切が最高な素晴らしいホラー短編。

キム・エランさんの作品は住居や立地について細かく描写されてることが多いと思うのだけど、本作もそれが特別に面白くて簡単に図面化したりした。土地の高低差が効果的に使われているあたり映画「パラサイト」を連想する作品でもあった。

キム・エランさんは自然の描写が素晴らしい作家さんでもある。本作ではその描写力がいかんなく発揮され、虫も雑草もそして人間も、その生命力がこれでもかと鮮やかに力強く描かれていて怖いです。笑

 

 

「かの地に夜、ここに歌」

一族の鼻つまみ者となって地元には居られずソウルでタクシーの運転手をやっている中年男ヨンデと、中国領朝鮮族自治州から出稼ぎにきたミョンファの出会いから別離までを描く、切なく美しい物語。回復の物語でもある。ミョンファの声が吹き込まれたテープを聴きシャドウイングしながらタクシーを走らせるヨンデを思い浮かべる。とても好きな一編。タイトルもいい。

なんでも映画に例えるのもどうかと思うけど、社会から孤立した二人が出会って恋に落ちるあたりは「オアシス」だなぁと思ったし、男性の回復の物語としては「ドライブ・マイ・カー」を連想した。

ミョンファの出身地である「延辺朝鮮族自治州」は「満州」として日本が支配していた地域の一部だと今回初めて知った。

 

 

「一日の軸」

国際空港で清掃の仕事をしている五十代の女性・キオクさんの物語。キオクさんは一人暮らしだし、ダブルワーク(もう一つはチラシ配り)してるくらいお金にも余裕がない。未来の見えなさにつらくなりそうな設定だ。だけど著者はキオクさんの淡々とした日常を愛しみとおかしみを込めて優しく描く。最後にカツラ外してマカロン食べてるシーンが最高だ。国際空港という抜けの良い背景も効果的。キオクさんはこれからもどこにも行けないかもしれないけど、同じくらい、どこにでも行ける気がした。

 

 

 

一年と三十万字の先に(古谷田奈月『フィールダー』)

 

古谷田奈月の新刊『フィールダー』を読んだ。

この小説が発売された八月末、私は絶賛コロナに罹患しており、家庭内隔離の状況下だった。普段はほしい本はe-honで注文して近所の書店に買いに行く。だけどそうはいかない状況下だったのでネット通販で発売日に到着するように購入した。結果的に隔離期間も終わった九月初めごろに読んだのでそんなに急いで買う必要はなかったわけだけど、私にとって古谷田奈月の新刊は発売日に絶対欲しいものなのだ。

 

 

実際読み始めるとあっという間に引き込まれて二日程度で読了した。だけどすぐには言葉にできなかった。普段は面白い本を読んだらすぐTwitterに感想を流したりするのだけど、そうしようとは思えなかった。でも言葉にしなければならないという気持ちがぐずぐずとあった。目につく場所に置いたまま一ヶ月が過ぎた今、もう一度この本をじっくり読むことにした。

 

 

本書の主役、橘泰介は大手出版社・立象社に所属し、人権にまつわる社会問題を取り上げる小冊子「立象スコープ」の編集部員だ。ある日、担当する著者であり信頼する児童福祉専門家である黒岩文子が、ある女児(黒岩は「アカツキ」と呼ぶ)を「触った」らしいという疑惑を聞かされて動揺する。

橘にはもう一つの顔がある。リングランドというオンラインゲーム内におけるハルオというキャラクターだ。VERSYS(隊長)、ハチワレ、未央と四人で毎晩のようにフィールドに狩りに出ている。ゲーム内では恐ろしく優秀だが恐らく引きこもりであるVERSYS(のちに礼という名前が明かされる)のことをハルオは気にかけていた。

 

 

黒岩文子は橘に宛てたメールの中で、アカツキへの感情、アカツキと肌で触れ合ったこと、しかしそれは性的な接触ではない、それは自分が一番よくわかっていると綴る。そして夫である絵本作家・宮田が「かわいい」からといって猫をペットとして飼う傲慢さに触れ、宮田の行為が微笑ましく受け入れられ、自分の行為が糾弾される、「ねじくれ」を直したいのだと言う。

黒岩の言葉が事実だったとして、ネグレクトが疑われるアカツキが赤子のように誰かの肌に甘えたいとせがんだとき、性的でない接触を与えて救おうとしたことは罪なのか。アカツキが実子だったら、もしくは養子だったら。それとも接触はなくても互いに特別な執着心を感じていたら。それが他者に露見することがなかったら。

他者から許される「境界線」はどこにあるのか。

 

 

一方で橘はハルオとしてチーム内のちょっとしたいざこざをきっかけに隊長と個別に話すこととなり、彼がまだ未成年であることを知って驚く。そして母親からの過干渉でほぼ外出できずオンラインの世界に生きてきた彼(礼)に現実の世界で手を差し伸べたいと考えるようになる。

家庭環境に問題のある未成年を助けたいと思った、という点に絞れば橘も黒岩も同じである。なんらかの機関や他人を介するのではなく、個人としてある種の感情を持って助けようとしたのもまた同じである。

ならば橘と黒岩の違いは何なのか。

触れるか触れないかに「境界線」があるのだろうか。

 

 

そしてこの物語にはもう一人、助けを求める未成年がいる。宮田と黒岩の娘である郁己である(黒岩の実子ではない)。黒岩が家を出たことで自分もまた家を出たいと思った郁己は橘の家に置いてくれと頼む。が、当然のように橘は断る。

「どんな事情があるとか、実態はどうかとか、世間はそんな細かいことを気にしてくれない。たとえ丁寧に説明したって、聞いてもらえないし読んでもらえないーー今の時代、長い文章なんて誰も読みやしないんだから。印象がすべて。ジャッジも早い。一人暮らしの部屋に女子高生を連れ込んでるなんて、そんなふうに言われたらぼくは即死だ」

冷たいが正しい判断だ。だが郁己と礼は同い年である。物語の終盤で礼は18歳になるが、成人という国が決めた線引きによって橘は礼を個人的に助けようと思ったわけではないだろう。郁己には宮田という保護者がいること、状況が深刻ではないこと、そして郁美が女性で礼が男性であることも、もちろん無関係ではないはずだ。それでも橘が郁己を助けることは断り、礼は自分から手を伸ばそうとした。その違いは何なのか。

「境界線」の正しさは、誰が決めるのか。

 

 

本作におけるジェンダーについても考えてみたい。

もし黒岩が男性だったら、と考えたとき、私は本当にゾッとした。

もし黒岩が男性だったら、アカツキに触れていたのが黒岩でなく宮田だったなら、橘は黒岩の長い長いメールを最後まで読んで会いにいくだろうか。理解しようと思うだろうか。

そう考えたときに黒岩文子が女性であること、児童福祉の専門家であること、という設定に著者の強い意図を感じた。

女性の性犯罪者がいることは知っている。ただ一方で性犯罪の加害者の8割以上が男性だということも知っている。でもだからと言って男性だったら「あり得る」、女性だったら「あり得ない」と反射的に思ってしまうのはやはり性差別だ。「まさか」と思ってしまった自分の中にある差別心を見つめさせられる。

また黒岩が女性であったことは、アカツキとの肌の触れ合いの背後に「母性」的なものがあるのではないかと想像してしまう。それもまた女性には母性があるという幻想に基づいた差別だろう。

「児童福祉専門家である女性が小児性愛者であるはずがない」

「他人同士が肌を触れ合う行為は性的欲求を満たすためである」

「オンラインゲームに入り浸る人は現実の人間関係に問題がある」

「独身の男性が女子高生を部屋に泊めるのは性的な目的があるからだ」

私たちのジャッジ、つまり境界線には深く先入観=差別が結びついている。

境界線の背後にある差別を浮き彫りにするこの物語は、境界線を決めること、ジャッジすることの暴力性についての物語でもある。

 

 

橘は黒岩の件を記事にしようとする同期の編集者に噛み付く。

「一年と三十万字くれ」

と。この件を記事にするにはそれだけ必要だと。

「紙幅なんだ。すべては紙幅だ。言葉が全然足りないんだよ。複雑なことを複雑なまま伝えないから自殺や差別がなくならない。人間は、本当は、単純さに耐えられる生き物じゃないんだ」

情報は即座に拡散される。よりわかりやすい、より強い言葉で。正しい、素晴らしい、間違ってる、あり得ない。誰かの共感を呼ぶ言葉にリツイートが積み上げる。そしてあっという間に忘れられる現代。

複雑なことを複雑なまま、答えの出ない問いを考える時間が、考え続ける根気が、欠けているのではないか?という問いの前に私は返す言葉がない。

「おまえらの正しさはいつだって外に基準がある」

女性表象で炎上を繰り返す少年漫画誌の編集者・前野が吐き捨てるように言う。この人ならと信頼できる人をフォローする、その人の言葉を信用してリツイートする。その日常の行為ひとつだって「正しさの基準が外にある」ことなのだと突き付けられる。

「正しい」「正しくない」の境界線を決めるのは本当に自分なんだろうかと足元が揺らぐ。

 

 

またこの物語には「筋を通す」という言葉が何度も出てくる。

これは黒岩が立象社の不祥事について橘に問いただした「どう筋を通す?」という問いに始まる。その不祥事とは立象社の社長(当時)がSNSで同性愛嫌悪発言をしたことだ。このことが引き起こした世間と業界関係者の激しい反発は、現実に起きた『新潮45』事件を思い出させた。

この物語を貫くこの「どう筋を通す?」という問い。

有言実行で「筋を通す」ことができる人もいるだろう。

「筋を通したい」という気持ちがあってもそうできない人もいるだろう。

「筋なんか通せるはずがない」と開き直る人もいるだろう。

だけど目に見える行動は表層であって、そこに至る様々な事情や感情が答える人間の数だけある。

暴力的な不正義を前に、抗うことも、立ち尽くすことも、飲み込まれてしまうことも、逆に飲み込んで前に進むことも、ある、あるのだと。私たちはもう知っている。

 

 

そんなこんなをぐるぐると考えさせられるこの物語の最後は、あっけないほどにスコンと抜けが良くて急に青空が見えた気持ちだった。助けたいと思い気持ちの真っ当さに、「この戦いも役割制でいこうよ」という言葉の掛け値なしの優しさに、不意を突かれて泣いた。両方は救えなくても。

再び覚悟を持って自分の手で「境界線」を引いた橘の行動はジャッジしたくない。だけどただ背中を押してあげたいような、そんな気がした。

 

 

チームワーク抜群と思っていたオンラインのチームが些細なことで崩壊しそうになることもあれば、現実の同期たちとの関係も悪いばかりでなく時に手を取り合うこともある。

現実もオンラインゲームも、チーム戦個人戦入り混じって戦い生きていく。そのほとんどはルールを守り境界線の内側だけど時には、不意に、衝動的に、もしくは死にたくなるほど考え抜いた先に、境界線を越えることもあるかもしれない。

私たちはそれを、「一年と三十万字」かけて理解したいと願うことはできるだろうか。